由緒

history

当山は正保二(1645)年に開山された天台宗の寺院です。本尊は東照大権現本地仏の薬師如来で、宝暦三(1758)年に元三大師ご鎮座の後は「小川厄除大師」・「中爪のお大師さん」等とよばれて、やくよけ・ご祈願のお寺として広く親しまれております。

 

開山

 

正保二(1645)年

徳川家康は没後、日光東照宮に東照大権現として祀られました。三代将軍家光による東照宮の寛永の大造替に前後して、その信仰の篤さから東照大権現は各地に分祀されます。

当寺の始まりもこれによるものです。当山のある中爪村の地行主であり四千七百石採りの旗本である高木甚左衛門正則が、この地にも東照大権現を祀りたいと家光公に願い出たのです。正則は毘沙門天を信仰するなど仏教への篤い帰依者でした。その願いが受理され、東叡山輪王寺で開眼された「絹本着色東照大権現画像(町指定文化財)」を中爪村の総鎮守である八宮明神の近くに安置したことにより当寺が始まります。

開山から代々、将軍家から寺領十石の朱印状を賜わり、現在九通の朱印状が東照大権現画像とともに寺宝として保管されています。

正則は男衾郡塚田村大悲山普光寺の隠居僧である尊慶に初代住職を命じましたが、尊慶は先代の尊栄に敬意を表しこれを第一祖としました。

 

 
 
 

本尊

 
 

薬師如来

当寺の本尊は薬師如来です。
東照大権現は、天台宗の僧侶天海の考案した山王一実神道(*1)により祀られました。それに基づき、薬師如来が世の人々を救うためにこの世に「権りに姿を変えて現れた」のが家康であるという考えにより神格化されました(*2)。「権に現れた」神であるので、家康の神号には「権現」が用いらました。
当山本堂と八宮神社の間には、地元の人々から「権現さん」と親しまれている社があります。この社に東照大権現が祀られており、その本地仏である薬師如来が当山の本尊として安置されたと考えられます。
同時代に全国を遊行していた円空(*3)作の伝薬師如来像が秘仏として祀られています。御前立ちの薬師如来は享保年間に開眼供養されたもので、最近では平成二十八(2016)年に京仏師の手により修復されました。

(*1)山王一実神道 平安時代から天台宗の本山である比叡山で作られた天台宗だての神道を山王神道という。山王一実神道は天海がそれを進化させた神道。神仏習合の時代(明治の神仏分離令以前)には仏教と神道は同等のものとして信仰されていた。

(*2)山王神道にある本地垂迹説に基づく。日本の神は悟りの世界である本地の仏が神の姿をかりてこの世にあらわれたとする考え方。

(*3)円空 当時の遊行僧で各地に推定十二万体もの仏像を残した仏師。自由で粗削りな作風で有名。

 

 
 
 

元三大師

 
 

宝暦三年(1758)、第六代住職舜常の時に当寺に元三大師が勧請されました。

元三大師は第十八代天台座主として消失した比叡山の堂塔再建、僧風の刷新、学問の興隆に尽力し「比叡山中興の祖」と仰がれる実在の僧侶です。名前は良源、天皇より賜わった諡号は慈恵大師といいますが、正月の三日に亡くなったことから元三大師の愛称で親しまれております。

また元三大師はその霊験のあらたかさにより、各地の寺に祀られ広く信仰されています。特に疫病を退けた角大師や、観音の三十三身説になぞらえた豆(魔滅)大師の逸話などが有名ですが、現在でも災厄を追い払うお大師様として人々に親しまれております。

当寺でも元三大師が勧請されてから現在まで「中爪のお大師さん」、「小川厄除大師」などとよばれ地元を中心に県の内外の方から広く信仰されております。

元三大師は如意輪観音の化身であるという言い伝えから、当寺では如意輪観音護摩供によるご祈願をおこなっております。

角大師のいわれ

 

 お大師さま晩年の夜、その元に疫病を司る神がやってきました。疫病の神がお大師さまにどうしても取り憑かなければいけないというので、お大師さまは疫病の神に小指を差し出しました。疫病の神がその小指に触れるとお大師さまは忽ちのうちに発熱し堪え難い苦痛にさいなまれました。

 しかし、お大師さまが心を静寂にして円融三諦を念じて弾指すると疫病の神は即座に弾き出されて逃げ失せ、苦痛も回復しました。

 小指でさえこれだけ苦しいのに全身疫病にさいなまれた人はどれだけ苦しいかと憂いたお大師さまは弟子をよびました。弟子に自分を鏡に映しその姿を紙に書き写しなさいと命じたのです。静かに禅定にはいるお大師さんの姿を、弟子が恐る恐る鏡に映すと、その姿は段々とかわり最後は骨だけの角の生えた鬼の姿にかわりました。弟子がその姿の恐ろしさにひれ伏しながら書き取りお大師様に見せると、お大師さまはこんどはそれをお札に刷れと弟子に命じられました。

 出来あがったお札をお大師さま自ら開眼して民家に配ると、いただいた家からは一人も流行していた疫病にかからず、疫病を患っていた人々もほどなく全快に向かいました。

 これ以来、このお札を角大師とよび毎年新年に各家の戸口に貼るという習慣が広まりました。疫病はもとより、あらゆる災厄や邪心を持つものはこの戸口から入ることができないといわれており、その信仰は現代まで脈々と伝わっております。

[参考文献:山田恵諦著『元三大師』第一書房]

豆(魔滅)大師のいわれ

 

寛永年間の出来事です。とある信心深いお百姓さんが田植えを終えて、比叡山の横川にある元三大師のお墓(御廟)に豊作の祈願にいきました。今年も水難、日照りの難、風の難などを逃れて豊作を与えて下さいと夜通し熱心に祈願しました。

 ところが、その夜は大雨となり降り出した雨は次第に強くなっていきます。この分ではせっかく田植えした田んぼも水没して全部だめになってしまうだろうとお百姓さんは悲嘆にくれながら帰路につきました。しかし、案の定、近隣の田畑は水没していまっているのですが、お百姓さんの田んぼだけは無事だというのです。実際に見るとその田んぼのまわりだけしっかりと土留めされており、自分の田んぼだけ濁水の中に苗の先がみえています。

 聞くところによると、昨日の夜、三十人あまりの子供がお百姓の田んぼにやってきて畔を作ったり田んぼの水を汲み上げたりしていたというのです。それはちょうどお百姓が熱心に祈りをささげていた時間帯と一致しておりました。

 観音さんは三十三の姿で我々を救ってくれるといわれています。三十あまりの子供ということは、観音さんの化身である元三大師が三十三人の子供の姿で田んぼに来てくれたのであろうと、お百姓さんは元三大師に篤くお礼をいたしました。

 このことから三十三体の小さいお大師さんを一枚のお札として作り、豆(魔滅)大師の信仰が広がりました。古来はこのお札を竹に挟み収穫の終わった田んぼや畑に立てていたそうです。現代でいえば、オフィスやデスク、仕事場にもということになるでしょうか。

[参考文献:山田恵諦著『元三大師』第一書房]